木橋

   都道府県別データ一覧にあるすべての木橋

写真 名称 ふりがな 所在地 付帯情報 形式 諸元 建造年 文化財 出典 保存状態 価値判断に係る事項 保存
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写真 彌彦神社の玉ノ橋 いやひこ 新潟/(西蒲原)弥彦村 彌彦神社参道/御手洗川 木桁橋(太鼓型) 長4.5m,幅2.1m 室町起源→江戸期   彌彦神社/村教委 明治29再建→明治45屋根のみ焼失→大正7移設→昭和60移設・屋根再建→平成23修復(橋全体を大きな木造建屋で覆う) 伝・室町時代の境内絵図に太鼓橋が描かれている→明治26の境内図に描かれた橋(改修記録がないので江戸期の架設であることはほぼ確実)と、現存する橋(明治29再建された橋)は、かなり似ている 3
写真 鑁阿寺の太鼓橋 ばんな 栃木/足利市 鑁阿寺・楼門前 木桁橋
(瓦葺き屋根)
長7.33m(G),
幅4m
安政2(1855) 県有形 鑁阿寺の研究(1)p17-18/WEB 保存状態良好/大勢の参拝客が通行 自然木の木桁を用いた国内唯一の屋根付き橋/木桁は両側に各1本の自然木→その上に太鼓型の歩行部を載せ、さらに各5本の柱を立ち上げ、重い瓦屋根を載せる 1
写真 二荒山神社神橋 ふたらさん、しん 栃木/日光市 大谷川 木刎橋 長26.42m(親柱間),幅7.4m 寛永13(1636) 国重文/世界遺産 市教委/現地解説板 2基の石橋脚はオリジナル/木部は定期的な架替え(形態は寛永期の橋に準拠)/平成17に大修理(桁内部は一部に近代的工法を採用) 修験者のための橋は1000年以上の歴史がある/石橋脚の上に刎木を載せた特殊な刎橋(普通の刎橋なら中間橋脚は存在しない)/3代将軍の東照宮造営時に現在の朱塗りの橋となる(桁下部が黒漆、高欄部が赤漆)/神事・将軍社参・勅使・幣帛供進使の参向の時のみ使用→昭和48から一般公開/中間に2本の貫の入ったΠ型の石橋脚は見事(木構造は定期的に架け替えられるが、この部分は寛政期のオリジナル) 2 写真
写真 筑波山神社の神橋 つくばさん・しんきょう 茨城/つくば市 筑波神社 木桁橋(太鼓型)
(屋根付き)
長7.2m,S1.8m(G) 嘉永10(1663) 県重文 市教委/WEB 修復履歴不明 安土桃山時代の豪壮な遺風が見られる(両妻の太瓶束の左右に、妻面を覆い尽くすように延びる唐草の笈形や、虹梁上の板蟇股)/御座替祭の時、神輿と随従の人々が渡る 1 写真
写真 旧・相模川橋脚 さがみ 神奈川/茅ヶ崎市 (下屋町)<相模川> <木桁橋>
木橋脚
長約40m以上,幅約9m〔1列3本×4〕(最後の列は1本) 建久9(1198) 国史跡 現地解説板 大正12年関東大震災と翌年1月の余震により水田の中から大きな杭が7本出現→地中に密閉保存→地上にレプリカで状況再現 建久9に源頼朝の重臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋と考えられている/『吾妻鏡』に頼朝が渡り初めをしたことなどが書かれている/中世の大規模な木橋の遺構が残っていることは非常に稀 3
写真 猿橋 さる 山梨/大月市 <甲州街道>/桂川 <木刎橋
(肘木けた式)>
長約31m,幅3.3m 宝暦6(1756)? 国名勝 市教委/日本百名橋p68-71 昭和59(1984)架替え/錦帯橋のように江戸期の工法を継承せず、主要部材は鋼材に木板を張り付ける構造とした 橋の架替えの記録が残るのは延宝4(1676)以降(形式不明)、宝暦6以降は刎橋であった可能性が高い→天保12(1841)に広重が訪れた際は現在と同型/日本三奇橋の一つ(富山の愛本橋と岩国の錦帯橋)/谷が31mと深く橋脚がたてられないため、両岸から張り出した4層の刎木により中央の桁を支える構造/雨による腐食を防止するため刎木の側面や横木の先端に小さな屋根を付けている 3 写真
写真 微妙橋(お経橋) びみょう 長野/安曇野市 栗尾山満願寺<栗尾道> 木方杖橋(屋根付き) 長約15m,幅3.6m 弘治2(1556)以前
→明治39(1906)
市有形 現地解説板/信州の文化財 明治39再建(木曽福島の大工)/方杖形式そのものが近代のものであり、江戸期の構造形式は不明(恐らく刎橋) 切妻造りの屋根付き方杖橋/橋板の裏面に梵字の経文「陀羅尼」が書かれている→お経橋の別名/善男善女が極楽浄土へ渡るための橋として親しまれる 4
写真 諏訪大社の下馬橋 すわ、げば 長野/(諏訪)下諏訪町 諏訪大社下社参道/<御手洗川> 木桁橋(太鼓型)
(屋根付き)
長9.95m,幅3.25m 天正6(1578)
→元文年間(1736頃)の修築
町有形 信州の文化財/WEB 橋の前後に石畳が残る/参道といっても市街地の一般道化している/川との関係性はない 諏訪大社の中で最も古い建物/円弧状の木橋を縦横の木梁・木柱で支える構造/茨城県の筑波山神社の神橋や大分県の薦神社の呉橋と類似した形態の屋根付き木橋 2 写真
写真 裁断橋 さいだん 愛知/
名古屋市(熱田区)
姥堂<東海道/精進川> 木桁橋   元和8(1622) 市有形(工芸) WEB 昭和28移設/3分の1の長さに短縮されたイミテーション橋(平成5)に復元した擬宝珠を付けて展示(本物の擬宝珠は、市立博物館) 秀吉の小田原征伐に出陣し病死した堀尾金助の母が供養のために老朽化した橋を修復/擬宝珠に母の愛を示す有名な銘文が刻まれている 4
  (再現)裁断橋 さいだん 愛知/(丹羽)大口町 堀尾跡公園<東海道/精進川> 木桁橋   元和8(1622)   WEB 母子の出世地に大々的に再現(平成8) 秀吉の小田原征伐に出陣し病死した堀尾金助の母が供養のために老朽化した橋を修復/擬宝珠に母の愛を示す有名な銘文が刻まれている 4
写真 宇治橋 うじ 三重/伊勢市 内宮参道/五十鈴川 木桁橋 長101.8m(14G),幅8.42m 寛政5(1467)、
永正2(1505)、
天文16(1547)
→何度も架替え
  日本百名橋p116-117/WEB 平成元(1989)架設/明治以降は式年遷宮に合わせて架替え→昭和24から遷宮の4年前の架替え 架設(寛政5): 大橋勧進聖本願坊(翌年流失、現在の形態かどうかは不明)、架設(永正2):守悦、架設(天文16):清順→現在の橋は、江戸期の橋に近いと思われる(拡幅、それに伴う橋桁本数増などはある) 3
写真 布橋 ぬの 富山/(中新川)立山町 姥堂川 木桁橋 長45m(=25間)
〔25菩薩に由来〕,敷板108枚〔煩悩の数に由来〕
江戸初期
→文政3(1820)再建
  立山博物館/WEB 明治初年に廃仏棄釈で取り壊し→昭和45再現(橋脚は鋼製)
→平成22修復
文政3の布橋再建の橋札銘文に、慶長11に造営されたと記されている
〔追記の可能性も〕/寛永元(1624)の擬宝珠が現存〔追刻の可能性も〕
/女人禁制の立山で、極楽往生を願う女性の救済のために営まれた儀式・布橋灌頂会の際に橋に白い布を敷いたことから来た呼称/此岸と彼岸をつなぐ境界の橋と観念されていた〔下記の「三途の大石」は別の川にの橋の所に置かれていた→町内に三途の川が2つあることになる〕
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写真 住吉大社の反橋 すみよし 大阪/大阪市(住吉区) 住吉大社 木桁橋(太鼓型) 長20m,高4.4m 慶長年間(創建)   WEB 何度も架替え(近年は昭和56と平成21)/石橋脚は創建時のものと考えられる(享保8(1723)以降の「攝津国一之宮住吉大神宮境内之図」には、石橋脚だけ描かれている) 雨に曝される構造のため定期的に架け替えられているが、江戸初期に起源をもつ大型の木橋/大きな太鼓型の桁を6ヶ所の石橋脚で支える構造/造営者は秀吉の側室・淀殿、もしくは、その子・豊臣秀頼とされる/宝永5(1708)以降の「住吉社古図」や、明和8(1771)の「住吉社細見繪圖」には、太鼓橋が明瞭に描かれている 3 写真
写真 丹生都比売神社の太鼓橋 にゅうつひめ 和歌山/
(伊都)かつらぎ町
参道橋/鏡池 木桁橋(太鼓型) (7G) 江戸初期?   WEB(石橋巡礼) 改修履歴不明 反り橋の形状になったのは淀君が寄進した時との伝承/3本で一対の背の高い石柱6基の上に太鼓型に朱塗りの木桁を載せる/石柱の背が高いため、安定性を増すため、橋軸方向に4層、橋軸直角方向に3層の木桁(黒漆塗り)が組み込まれている 2
写真 善女龍王社の橋 ぜんにょりゅうおう 和歌山/(伊都)高野町 高野山金剛峯寺 木桁橋 (8G) 江戸期?   WEB(石橋巡礼) 木桁の改修履歴不明 2本一対の背の低い石橋脚が等間隔で7基並び、その上に木桁橋を載せる 3
写真 (再現)百間川米田遺跡の橋遺構 ひゃっけんがわ・よねだ 岡山/岡山市(中区) 百間川(右岸<左岸>) <木桁橋>
木杭、敷石
長40m,幅2.3m 鎌倉~室町期   現地解説板 発掘調査後、1㎞以上上流の河川敷内に、遺跡公園として部分的に再現 発掘結果は、室町~鎌倉期の木橋の構造を知る上で貴重なもの: 川底敷石に、先端の尖った木杭を打ち込んだ簡単な構造/展示の敷石と木杭は理想化された状態 4
写真 北惣門橋 きたそうもん 島根/松江市 松江城・東側内堀 木桁橋 長18.24m(3G),
幅3.82m
江戸期   市教委 平成6に再現(発掘結果、絵図、文献史料に基づき復元) 内堀東側にあった家老屋敷と場内を結ぶ重要な橋/復元されたにせよ、修復されたにせよ江戸期の木橋は稀少 2
写真 厳島神社の反橋 いつくしま 広島/廿日市市 厳島神社 木桁橋(太鼓型) 長24.2m,幅4.6m,高5.5m(10G) 弘治3(1557) 国重文(建造物) 日本百名橋p187-189 弘治3銘の擬宝珠(1基)は宝物館に収蔵(現地はレプリカ)、文化9(1812)銘5基、安政4(1857)銘1基、安永5(1776)の架替え時のものと推定されるもの1基/昭和20の山津波による被災で床板・桁・支柱の根継ぎ等修理/通行禁止 毛利元就・隆元父子が子孫繁昌を祈願して奉造、造営は大願寺の僧・円海/錦帯橋の39.7mという支間長に次ぐ24.2mを非アーチ構造で支えるため10径間という異例な形態が採用→井桁構造で太鼓橋を密に支持→上部の擬宝珠5基×2の位置とは合致しない/高欄は丹塗りに対し、橋脚は墨塗りで目立たない/別名勅使橋とも言われ、天皇からの使者(勅使)だけがこの橋を渡ることが出来たとされる 2
  厳島神社の長橋 いつくしま 広島/廿日市市 厳島神社 木桁橋 長33.9m(19G),
幅3.0m
安土桃山期(1573-1614) 国重文(建造物) 日本百名橋p189-190 赤間石の一部は花崗岩で後補/架替えの履歴不明/昭和20の山津波による被災で構造変更、大半部の木部材を更新/通行禁止 毛利氏の奉造/赤間石(赤色の泥板石)の2本橋脚上に木桁を19連並べた木桁橋/本社裏の御供所から神饌が運ばれるときに使われていた 2
  厳島神社の揚水橋 いつくしま 広島/廿日市市 厳島神社 木桁橋 長5.7m,幅4.2m 安土桃山期(1573-1614) 国重文(建造物) 日本百名橋p190 昭和20の山津波による被災で架替え 赤間石造橋脚の木橋/桁の中央に浅の間と呼ばれる突き出した部分があり、そこから潮を汲み上げる儀式があったと言われる 2
写真 錦帯橋 きんたい 山口/岩国市 錦川 木アーチ橋
(石橋脚)
長210m(橋面),
長199.3m(直線),橋台高6.64m
延宝元(1673)
→延宝6(1678)鞍木補強
国名勝 名勝錦帯橋修復に関する報告書
/歴史の道2p61
昭和25台風により流失→昭和28再建時に直線化、スパン割変更、石橋脚などの構造変更が行われた/最新の架替えは平成13-16、観光客減を恐れて順次架替え、架替え部分を間近に見られるよう工夫した 岩国城と城下町を繋ぐ木橋/延宝元の創建だが、延宝6に橋桁裏面を鞍木で補強してから安定した構造物となり、木材腐食に伴う定期的な架替えはあるものの、原形通りの姿を今に留めている/世界の歴史的木造アーチは、①京の虹橋(11C中頃)に代表される北宋の多角形アーチ、②錦帯橋、③スイスのグルーベンマン兄弟によるトラスとアーチの混成した屋根付き橋(18世紀後半)に大別される→錦帯橋の構造は全く独自のもので、世界の橋梁史という観点からも高く評価される 2 写真
写真 呉橋 くれ 大分/宇佐市 宇佐神宮・西参道
人道<表参道>/寄藻川
木桁橋
(檜皮葺き屋根)
長24.67m(5G) 元和8(1622) 県有形 日本百名橋p222/WEB 明治9、昭和7、昭和26大改修/西端の桁がRC造/橋脚下部はRC一体化構造(河川構造令による構造変更)/西端の橋脚1基がRC造/通行禁止 豊前小倉藩の2代藩主・細川忠利が修築/屋根付き(向唐破風造・桧皮葺)、朱塗りの優雅な木橋/橋脚は御影石の石円柱/高欄の擬宝珠に「元和壬戌」(1622)と「細川忠利」の刻銘/呉国出身の人物が造ったことから「呉橋」と命名されたとの伝承があるが真偽不明 2 写真
写真 薦神社の呉橋 こも、くれ 大分/中津市 薦神社 木桁橋(弓型)
(銅板葺き屋根)
長約10m 嘉永3(1850) 市有形 市教委 明治17、屋根葺替え(柿葺→銅板葺)/通行禁止(腐食が進行し、両側から何本もの支柱で支えている) 造営:第8代豊前中津藩主・奥平昌服/強い弧を描く反橋/入口の虹梁の両端に木鼻、虹梁上部の梁には蟇股/江戸時代の木橋がほとんど補修されることなく残る稀有な例 1 写真